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1969年はロックンロールの当たり年といえます。ウッドストックに加え、MC5によるKick Out the JamsThe Stoogesによるデビューアルバムの発表、ローリング・ストーンズによるLet It Bleed、フランク・ザッパによる Hot Rats、フリートウッド・マックによるThen Play On、キング・クリムゾンによるIn the Court of the Crimson King、ブラインド・フェイスのデヴュー、キャプテン・ビーフハートによるTrout Mask Replica、ディランのNashville Skyline、ビートルズのAbbey Road、サンタナのデビュー、スライ&ザ・ファミリー・ストーンによるStandなど、まだまだ他の例も挙げられます。

そして、勿論、レッド・ツェッペリンによるLed ZeppelinLed Zeppelin IIも忘れてはなりません。

ジミー・ペイジがスーパーグループの結成に動き出したのは若干24歳の頃でしたが、そのころ既に、腕利きのヴェテラン・スタジオ・ミュージシャンであり、元ヤードバーズのギタリストという経歴の持ち主でした。その新バンドの足跡は、ロンドンのオリンピック・スタジオで吹き込まれることになり、1969年の112日にデビュー・アルバムがリリースされることとなりました。

レッド・ツェッペリンは、アルバムデビューを飾る前に、既にカレッジでのギグ・ツアーやスカンジナヴィア・ツアーなど、新生ヤードバーズとして活動を積み上げており、ヤードバーズの楽曲や“Communication Breakdown”、ウィリー・ディクソンの楽曲である“I Can’t Quit You Baby”、 “Babe, I’m Gonna Leave You”や、怒涛の迫力の “You Shook Me” といった当時のレパートリーの数々は、デビュー前のツアー時に既に定番のレパートリーとなっていたのです。そのため、メンバー達がオリンピック・スタジオに入った時には、既に楽曲のアレンジは完成されており、ミックス作業も含め、たったの36時間でデビューアルバムを録り終えるという早業だったのです。

デビューアルバムである Led Zeppelinで聴かれる、とびきりのギターサウンドを収録するために、ペイジは、容赦ないほどにオーヴァードライヴさせた小型のスープロ・アンプを用い、サイケデリック調のハンドペイントが施された1958年製のテレキャスターをかき鳴らしました。また、彼は自然な臨場感を活かしました。その時まで、ギターの音録りといえば、一般的には1本のマイクロフォンを用い、アンプのフロント・グリルの真正面にマイクをセットして収音することが一般的でした。しかし、ペイジは複数のマイクロフォンの使用にこだわり、数本のマイクをアンプから6メートル程度離し、それぞれのサウンドをブレンドしテープに収めたのです。

Led Zeppelinで聴かれるギターサウンドは、当時既に偉大に響き渡っていましたが、ペイジは即座に、セカンドアルバムであるLed Zeppelin II 製作へ向けた準備を開始します。その後、ペイジは Gibson Les Paulという逸品のステータスを永久的に最上級まで高め、とりわけ1959モデルの神秘性を決定付けることに、多大なる貢献をすることとなっていくのです。

ファーストアルバムのLed Zeppelinのリリース後の米国ツアー中の1969年4月に、ペイジは、サンバースト・カラーの59年製レス・ポールをジョー・ウォルシュから購入し、そのギターこそがペイジの“ナンバーワン”として神聖な存在となりました。その59レス・ポールを手にしたペイジの姿は、フィルモア・ウエストや、サン・フランシスコのウィンターランド、サン・アントニオのローズ・パレスなどのステージで初披露となりました。

ウォルシュは、当時ギブソン・ギターをプレイしていて、ジェームス・ギャングで歌っていましたが、彼はペイジに例の59サンバースト・レス・ポールを売る前に、そのギターのネックをもっと薄いネックプロファイルになるよう、削り込む改造を施していたのです。ペイジはその頃既に、ビグズビー・トレモロ・アームを後付けした1960年製の黒いレス・ポール・カスタムを所有していました。しかし、ウォルシュから購入したレス・ポールは明らかに違いました。手に馴染む感じ、肩からかけた時の感触が完璧に感じられました。そうして、そのレス・ポールは何百枚もの象徴的なライヴ写真に収められるようになり、魔法のように、ペイジの思い描く重厚なサウンドをいとも容易に出力していったのでした。

ペイジはその“ナンバーワン”を、“妻”や“愛する女性”と形容し、代えがきかない大事な存在としていました。1970年に盗難されたペイジ所有のブラック・ビューティとは異なり、“ナンバーワン”は、ずっとペイジの所有下にあり続け、後に実現することとなったギブソン・カスタム・ショップによる復刻モデルのリリースにより、絶対的な永遠のステータスがもたらされることとなりました。70年代になると、ブリッジ・ピックアップ側のトーン・コントロールはプッシュ・プル・ポットへと交換され、ピックアップをアウト・オブ・フェイズにすることが可能になり、その後ツアー中にブリッジ・ピックアップのパワーが衰えてきたため、ブリッジ・ピックアップは交換されることとなりました。また、“ナンバーワン”は、ゴールドメッキのグローヴァー・チューナーを装着するようにパーツ変更がなされました。それら以外の点においては、“ナンバーワン”は、ペイジが入手した時点での姿と変わりがありません。勿論、ツェッペリンのツアーでの使用痕や傷は付くことになりましたが。

“ナンバーワン”とずらりと並んだマーシャル・アンプの壁、ペイジがステージで使用していた光景ですが、それにストリング・ベンダーが揃い、それらがLed Zeppelin IIでのサウンドの下地となりました。バンドは1969年の1月~8月まで米国とヨーロッパでのツアーを続け、その間に、2作目のLed Zeppelin IIで収録されることになる楽曲を作曲し発展させていきました。一作目のLed Zeppelinの時とは異なり、ツアー中に一曲一曲、米国内や英国内の別々のスタジオで録音されていきました。そのレコーディングのプロセスは、ゆったり余裕を持ったものとは程遠かったのですが、各レコーディング時のセッションのスケジュールはコンサートの合間を縫ってぎゅうぎゅうに詰め込まれていたので、結果的に一作目のようなライヴ感のあるフィーリングを捉えた作品となりました。

2作目のLed Zeppelin IIを通して一貫して変わらなかった点は、エンジニアとしてエディ・クレイマーが携わったことです。彼は、以前にジミ・ヘンドリックスと仕事したことがあり、現在でもジミの遺したテープに関わり、ヘンドリクスの遺した音楽的遺産に関わる人物です。クレイマーは、ペイジがよりクリーンで歯切れが良く、方向性の明確なサウンドを出し、アルバム全体を通じて貫けるよう尽力し、ペイジに冒険心をもって実験するよう促しました。サイケデリックな曲調の“Whole Lotta Love”は、傾きながらぐるぐる旋回する乗り物のような連続した残像感の中を突き進んで行くような曲ですが、この曲こそ、彼らが冒険心をもって取り組んだ努力から生まれた、もっとも顕著な成果だといえます。

“Ramble On”では、幻想的・冒険的なストーリーの歌詞をハードロックの曲調に乗せるという手法を確立しました。“What Is and What Should Never Be”では、そのダイナミクスの幅を最大限に推し広げました。ドラマーのジョン・ボーナムは“Moby Dick”の曲中で、巧みにドラムソロを忍ばせ、ジンジャー・ベイカーによる“Toad”のドラムソロを凌ぐ出色の出来を披露しました。しかし、ペイジにいたっては、へヴィー・ロックにおけるギター・サウンドの何たるかを定義づけ、レス・ポールによる天井知らずの威力を、永遠に決定付けることとなったのです。“Heartbreaker”でのペイジのリフは、後の“Eruption”を生み、後世のほとんどすべての新進著しいギタリストに影響を与え、全てのギタリストが避けて通れないものとなりました。ペイジの生み出した“The Lemon Song”と“Whole Lotta Love” でのギターリフは、ロックのフィールドにおける全時代を通しての記念碑と呼べるものです。

Led Zeppelin IIの制作を終えるとすぐに、ペイジは、2本目のレス・ポール・スタンダードを入手し、“ナンバーツー”と命名しました。彼は、“ナンバーツー”のネック形状を、“ナンバーワン”の特徴的なプロファイルに寄せるよう、削り込む改造を施しました。そして、プッシュ・プル・ポットを取り付け、ハムバッカー・ピックアップをコイル・スプリットできるように改造しました。レッド・ツェッぺリンが解散した後、ペイジは、ピックガードの下に、フェイズとシリーズの切り替えスイッチを取り付けました。

最後に、改めて、ツェッペリンの解散前、“ナンバーワン”と“ナンバーツー”がロックンロールの歴史を築き上げることに対し、絶大なる貢献をしてきたことを確認しましょう。ペイジと彼が結成したスーパーグループ、レッド・ツェッペリンは、時代を超越した荘厳なアルバムを7枚もリリースし、時代を超えて全世界から愛され続ける、ロックンロールの金字塔を打ち立てたのですから。